電波男の愛

電波男でさんざん求められている「真実の愛」とは、一体なんなのだろう。その定義があいまいだから、あちこちで意見の食い違いがおきているように見える。

個人的見解で言わせてもらえば、電波男の言う「真実の愛」とは倫理観に他ならない。それは電波男における男が「暴力をふるわない、心やさしい」オタクと、「女を肉便器としてしか見ない、暴力をふるう」DQN、と分類されているところからも読み取れる。恋愛が宗教の代替物である、という主張を持ち出しているところも同様だ。宗教は倫理の根源なんだから。そう考えると、電波男の真の姿が見え始める。

倫理と法律

倫理というのは法律と似ている。どちらも万人に適用される規則だ。倫理は善悪の評価基準であるし、法律は罪と罰の評価基準である。しかし異なる部分も多い。倫理は個人の価値観の一部であり他人に押し付けることはできない。法律は社会の一部でありその権限の及ぶ限り適用される。倫理では善悪を主張する以上のことができない。法律では社会的な拘束力をつかって他者に苦痛を与えることができる。宮台が主張しているが、現代社会の問題のひとつに、多数派が自分たちの倫理を法律にすることで少数派に押し付けようとすることが挙げられる。

また、倫理は人間が生まれつき備えている能力と密接に関連している。俺たちは「公正さを検証する能力」、つまり「誰かズルをしていないだろうか、と検証する能力」を生まれながらにもっている。倫理や公正さをどうやって獲得したのかについては道徳性の進化論とかを参照して欲しい。心理学の実験で、単純な論理の検証を、無機質な数字と記号で扱った場合と倫理的な事柄で扱った場合とで比べたものがある。もちろん正答率が高かったのは倫理的な事柄で扱ったほうだ。

オタクとDQNはまったく異なる倫理観を持っている。オタクの倫理観は社会で合意の取れたいわば教科書的で社会的なものだ。一方DQNの持つ倫理観は果てしなくオレ理論であり反社会的だ。オタクは自分の倫理が倫理でしかないことを知っている。つまりオタク自身にとっての善悪を主張するだけしかできない。一方、DQNは自分の倫理が倫理であることを知らない。むしろ法律だと考えていて、罪を犯したものは罰(暴力)があってしかるべき、と考えているフシがある*1

倫理には行使できる強制力がない。だが生まれながらに持っているものであり、捨てることができないものなのだ。

*1:たとえ法律に反していたとしても、自分で罰を与えるのは自力救済の禁止原則に違反してるんだけどさ

電波男の倫理

倫理に焦点を当てることで、電波男が主張するオタクの姿をどんどん明白にしてみよう。電波男がオタクという呼び方で暗黙的に定義しているのは、実は「女の子を傷つけてはいけない、女の子を人間として扱わなければいけない」という倫理観を持った人間なのだ。そして電波男が断罪する三十女の姿も明白になる。「おたく男は傷つけてもいい、おたく男を人間として扱わなくてもいい」という倫理観を持った人間だ。

本田はしかし、自身の主張の核心が倫理でしかないことを、相手に強制できないものであることを知っている。だから、断罪するにとどめる。だから、「三十女はオタク男を傷つけるような倫理観(恋愛観)を持つな」とまでは強制しない。だから、三次元を捨てて二次元に逃避する。

この逃避は弱さではない。むしろ強さと言ってよい。そして暴力などでの表現に比べはるかに社会的だ。具体名を列挙したりはしないが、某団体などでは倫理の強制という反社会的な行為ををはじめてしまうところだ。あと某新聞社とかな。それらに比べ、本田の「傷つけない」姿勢はここでも一貫している。

本田の持つ倫理、「傷つけない、人間として扱う」という倫理に従った対人関係こそが、本田が真実の愛と呼ぶものなのだ。